京都の通り名はいかにして変えられてきたか

□京都の「通りの愛称」

京都は794年の平安京成立当時、東西方向には一条から九条までの9本の大路とその間の小路、南北方向には、朱雀大路を中心として大宮大路、東西京極大路などの11の大路とその間の小路からなっていた。

その後応仁の乱や豊臣秀吉の市街地改造、明治以降の市街地拡張などにより、様々な新しい愛称がつけられ、現在に至っている。

京都の「通りの愛称」の由来には、以下のような特長がある。

・近世までは、通り沿いの、建物や人々の活動池、川、木(松)などの自然言い伝えなどがある。

・近代では、東大路通(北大路通、西大路通も明治以降につくられている)など、わかりやすい位置関係を示したものなどがある。

 

例えば、以下のようなものがある。

 

1)東西の通り

現在の通り名

平安京開設当初

中世

近世

近代

由来

上長者町通

土御門大路

応仁の乱後再開「新庄家」

「長者」

豊臣秀吉により、聚楽第が壊されて以降、千本通まで開通

 

諸家の金穀を用達する者住す。当時富裕の聞へあり人呼んで長者と称す。」(坊目誌)

今出川通

 

「北小路」

「今出川通」命名

鴨川河原~新町通り西入

 

東洞院大路~京極大路まで北側に今出川が流れていた。(山州名跡史)

丸太町通

春日小路

 

寺町通~ひぐらし通まで

明治26年新道

明治45年に軌道敷設

「此筋の西ほり川に丸太のざいもくやおほくあるゆへに、世には丸太町通という」(京雀)

御池通

三条坊門通

 

豊臣秀吉による市街地改造後に開通

昭和20年拡幅

「此通の号は神泉苑の前通ゆへ斯くよぶ」(京町鑑)

蛸薬師通

四条坊門通

 

寺町通から大宮通間の東西の通り

 

蛸薬師の堂あるゆへに世に蛸薬師通という」(京雀)

 

2)南北の通り

現在の通り名

平安京開設当初

中世

近世

近代

由来

七本松通

(大内裏内)

 

豊臣秀吉による市街地改造後に開通

 

「此通下に一株七本に分かれたる松あり、故に道筋の号とす」(坊目誌)

千本通

朱雀大路

その後畑地化

埋葬の地蓮台野(現北区)への往環路となる

 

 

「俗称千本通其故ハ・・千本ノ率都婆ヲ起立セバ可ナリト・・其率都婆ヲ立ル所、洛北蓮台野ニシテ、其条通此街ナルヲ以テ号之ト云フ」(山州名跡史)

寺町通

東京極大路

 

豊臣秀吉による市街地改造による

 

豊臣秀吉による洛中散在寺院の強制移住による

河原町通

 

 

豊臣秀吉による市街地改造後に開通

 

「寺町より東は川原なりしゆへ号す」(京町鑑)

木屋町通

 

 

安土桃山時代末期、慶長年間の角倉了以による高瀬川開削に伴い開通

 

「此町筋の上下は、樵木柴炭材木を商ふ」(京雀)

東大路通

 

 

小堀通

明治45年拡幅延長

大正2年、東大路通と命名

以上「京都市の地名」による。

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